津軽藩(弘前藩)の世子であった津軽承祐 (つがる ゆきとみ)は、1855年に17歳で死亡した。その死因は、婚約者の地元から送られた桃に砂糖をかけて食べて、重症な下痢を生じたためとされた。1954年に埋葬された墓を調査したところ、ほぼミイラの形で発見された。その後、1年に一度、有料で公開されたが、一族の希望によって、1995年に火葬後に埋葬された。
私は、このミイラについて、昔(30年前)、調査したことがある。なぜ、ミイラになったのか?その原因は土葬された箱の近くに地下水が流れていたために、冷却され続けたためと、私は考察したのを覚えている。
さらに、この若様の治療についても調べたところ、栄養状態が悪化したという理由から、「ヤギの乳」を飲まされていた。たしか、その数日後に死んだと記憶がある。
昔、私は、死因は毒殺ではないか?とも考えた。というのは、1854に日米通商条約が結ばれて、この若様が死んだのは、その翌年であった。確か、若様は幕府側に近く、その後に後を継いだのは、反幕府側に近い存在だったと記憶がある。(追記:若様死亡後、熊本藩細川家の四男が養子となり、津軽家を継ぐ。熊本藩は明治政府側で彰義隊と闘う。)その影響で、津軽藩は米沢藩やのように薩長から攻撃されず、容易に新政府側につき、函館戦争では官軍と一緒に行動したと考えたことがあるのだ。今、弘前城が残っているのは、若様が亡くなったことも影響しているということもあろう。
では、この若様の死因を高フォドマップから、考えてみたい。
桃は、果糖によって高フォドマップである。そして、当時の砂糖と言えば、甘藷から作られた和製砂糖である。甘藷にはポリオールが多いため、コップ半分以上で下痢を来す。当時、つまり、江戸時代の砂糖精製の技術のレベルは不明ではあるが、果糖+ポリオールで重症の下痢を来し、さらに「ヤギの乳」の乳糖で、さらに下痢が悪化し、脱水によって死亡したのではないか?重症の下痢のために大腸の腸内細菌が減少したために腐敗が進行せず、体全体の水分も少なかったために乾燥してミイラとなったのではいかと、今は思うのである。